白隠禅師坐禅和讃

作者:白隠(1686年-1769年)

衆生本来 仏なり 水と氷の 如くにて
水を離れて 氷なく 衆生の外(ほか)に 仏なし
衆生近きを 知らずして 遠く求むる はかなさよ
たとえば水の 中に居て 渇を叫ぶが 如くなり
長者の家の 子となりて 貧里(ひんり)に迷うに 異ならず
六趣輪廻の 因縁は 己が愚痴の 闇路なり
闇路に闇路を 踏そえて いつか生死を 離るべき
夫れ摩訶衍(まかえん)の 禅定は 称歎するに 余りあり
布施や持戒の 諸波羅蜜 念仏懺悔(さんげ) 修行等
そのしな多き 諸善行 皆この中に 帰するなり
一座の功を なす人も 積し無量の 罪ほろぶ
悪趣何処に ありぬべき 浄土即ち 遠からず
かたじけなくも この法を 一たび耳に ふるる時
讃歎随喜(さんたんずいき) する人は 福を得る事 限りなし
いわんや自ら 回向(えこう)して 直に自性を 証すれば
自性即ち 無性にて 既に戯論を 離れたり
因果一如の 門ひらけ 無二無三の 道直し
無相の相を 相として 行くも帰るも 余所(よそ)ならず
無念の念を 念として うたうも舞うも 法の声
三昧無礙(ざんまいむげ)の 空ひろく 四智(しち)円明(えんみょう)の 月さえん
この時何をか 求むべき 寂滅(じゃくめつ)現前 するゆえに
当所(とうしょ)即ち 蓮華国 この身即ち 仏なり

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