スッタニパータ

パーリ語 中村元訳
第四 Aṭṭhaka Vagga 八つの詩句の章
Paramaṭ­ṭha­kasutta 最上についての八つの詩句
Paramanti diṭṭhīsu paribbasāno,
Yaduttari kurute jantu loke;
Hīnāti aññe tato sabbamāha,
Tasmā vivādāni avītivatto.
世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
Yadattanī passati ānisaṃsaṃ,
Diṭṭhe sute sīlavate mute vā;
Tadeva so tattha samuggahāya,
Nihīnato passati sabbamaññaṃ.
かれ(世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
Taṃ vāpi ganthaṃ kusalā vadanti,
Yaṃ nissito passati hīnamaññaṃ;
Tasmā hi diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā,
Sīlabbataṃ bhikkhu na nissayeyya.
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実はこだわりである。と<真理に達した人々>は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
Diṭṭhimpi lokasmiṃ na kappayeyya,
Ñāṇena vā sīlavatena vāpi;
Samoti attāna­manūpa­neyya,
Hīno na maññetha visesi vāpi.
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
Attaṃ pahāya anupādiyāno,
Ñāṇepi so nissayaṃ no karoti;
Sa ve viyattesu na vaggasārī,
Diṭṭhimpi so na pacceti kiñci.
かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
Yassūbhayante paṇidhīdha natthi,
Bhavābhavāya idha vā huraṃ vā;
Nivesanā tassa na santi keci,
Dhammesu niccheyya samuggahītaṃ.
かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。
Tassīdha diṭṭhe va sute mute vā,
Pakappitā natthi aṇūpi saññā;
Taṃ brāhmaṇaṃ diṭṭhi­manā­diyānaṃ,
Kenīdha lokasmiṃ vikappayeyya.
かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
Na kappayanti na purekkharonti,
Dhammāpi tesaṃ na paṭicchitāse;
Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo,
Pāraṅgato na pacceti tādīti.
かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

上記から学べる事

(1)教義は受け入れる必要がない

諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない

教義を受け入れるのが宗教ですから宗教を否定している文句です。ただ歴史的には教義を受け入れる宗教が大きな存在でした。矛盾していますが人間が人間をコントロールする時代が関係しているかもしれない。ただネット時代になって情報の非対称が急速に解消され、矛盾が認知されるようになり人々が宗教から離れ始めています。

それでも関心がある場合、仏教の言葉をどのように考えるか?

経典を含め多くの人たちが作った歌(頌:うた)と思う方法として、正邪のイデオロギーを除き、人生の応援歌として見ることができるかもしれない。

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