年 | 柳宗悦 | 柳兼子 | 歌曲関係 |
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1879 | 音楽取調掛(~1887年)発足 | ||
1887 | 東京音楽学校発足 | ||
1889 | 東京市麻布区生まれ | ||
1892 | 東京本所生まれ(中島かね) | ||
1894 | 瀧廉太郎、15歳で東京音楽学校に入学。 | ||
1895 | 学習院初等科に入学 | ||
1986 | 瀧廉太郎、奏楽堂でヨゼフ・ラインベルガーの〈バラード〉を弾く。 | ||
1898 | 瀧廉太郎、東京音楽学校を卒業。同年研究科に進む。 | ||
1900 | 瀧廉太郎(作曲)「花」「荒城の月」「箱根八里」。三浦環、東京音楽学校に入学 | ||
1901 | 学習院中等科に進む。 | 瀧廉太郎、ライプツィヒ音楽院に入学。瀧廉太郎(作曲)「お正月」「はとぽっぽ」「ゆきやこんこ」 | |
1904 | 山田耕筰、東京音楽学校予科入学。三浦環、東京音楽学校を卒業、研究科へ進み声楽の指導もする。 | ||
1905 | 信時潔、東京音楽学校予科入学 | ||
1907 | 学習院高等学科に進む。 | ||
1908 | 東京音楽学校声楽科入学 | ||
1909 | 鈴木大拙や西田幾多郎に学ぶ | ||
1910 | 東京帝国大学文科に進む。「白樺」創刊。 | 東京音楽学校声楽科を卒業 | 高野辰之、東京音楽学校教授に就任。(唱歌)「春が来た」 |
1911 | (唱歌)「もみじ」 | ||
1912 | ユンケル氏送別大音楽会(帝国劇場)出演「ヘロディアート」を歌う | (唱歌)「春の小川」 | |
1913 | 東京帝国大学卒業。 | 「白樺主催の音楽会」(帝国ホテル)で「カルメン」より「ハバネラ」を独唱(日本人初のステージでの歌唱) | |
1914 | 中島兼子と結婚。我孫子に転居。「ウイリアム・ブレイク」刊行 | 柳宗悦と結婚。東京フィルハーモニー会第14回公演で「ハバネラ」歌う | (唱歌)「故郷」「朧月夜」 |
1915 | 三浦環、イギリスをはじめ欧米各国でオペラに出演(~1935) | ||
1918 | 雑誌「赤い鳥」創刊(~1936) | ||
1919 | 「宗教とその真理」刊行。東洋大学教授就任。 | ||
1920 | 夫婦で朝鮮講演・音楽会開催 | 夫婦で朝鮮講演・音楽会開催 | |
1921 | (唱歌)「どんぐりころころ」 | ||
1923 | (唱歌)「春よ来い」「夕焼小焼」 | ||
1924 | 京都へ転居。 | ||
1926 | 民藝運動を開始。 | ||
1927 | グスタフ・マーラーの歌曲集を歌う(近衛秀麿指揮、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の定期演奏会) | ||
1928 | ドイツへ留学。ベルリンでのリサイタル。 | ||
1929 | 「工芸美論」刊行。寿岳文章と「ブレイクとホイットマン」創刊。 | ||
1931 | 月刊雑誌「工藝」創刊 | (唱歌)「こいのぼり」 | |
1932 | (唱歌)「月の沙漠」(レコード化) | ||
1934 | 日本民藝協会を設立。「美と工藝」創刊。 | ||
1935 | 三浦環「蝶々夫人」出演2000回記録達成し帰国。 | ||
1936 | 日本民藝館が完成(大原孫三郎も援助) | (唱歌)「うれしいひなまつり」 | |
1941 | (唱歌)「海」 | ||
1947 | 鈴木大拙と北陸地方を講演旅行 | ||
1948 | 松ヶ丘文庫理事長就任。「手仕事の日本」刊行 | ||
1949 | 「美の法門」を上梓。この頃からリウマチと心臓の不調に悩まされるようになる。 | ||
1950 | 「妙好人 因幡の源左」を刊行 | ||
1951 | 「南無阿弥陀仏」を「大法輪」に連載開始 | ||
1954 | 国立音楽大学教授に就任 | ||
1955 | 「南無阿弥陀仏」刊行 | ||
1961 | 72歳没 | ||
1972 | 国立音楽大学教授を退職 | ||
1984 | 92歳没 |
参考文献
中見真理「柳宗悦―『複合の美』の思想」岩波新書2013年
小池静子「柳宗悦を支えて 声楽と民藝の母・柳兼子の生涯」現代書館2009年