榎本栄一 念仏のうた

 1903-1998
 兵庫県淡路島生まれ。1950年東大阪市で化粧品店を開業(Wikipedia)
念仏のうた「難度海(榎本栄一著)」より
●光は
しぶとい
この頭がさがったら
浄土の光は
こんなところに
●道づれ
今日も
如来さまは
この足弱き私の
道づれになってくださる
この道 平坦ではありません
●現世功徳
南無阿弥陀仏は
私の底なしの
僑慢心を
毎日 照らしてくださる
●ふところ
阿弥陀さまのふところで
私はあきないもします
自転車にも乗ります
お酒もいっぽん
いただきます
●仏の道
ふみはずしましたが
気がつけば
ここも仏の道でございました
●大悲の中
私は小さなあきんど
いつしか仏さまの
大悲の中をあるいている
ここはあるいてもあるいても
果てしれず
●泥んこいのち
私 この娑婆世界の
泥んこの中から
如来のいのちたまわる
親鸞さまも 私も
はちすの花も 泥んこいのち
●仏遊歩
なむ大慈大悲の
仏さまは
いま私のいる
この底辺を
好んで おあるきになる
●光を迎える
なむ十万億土からの光さま
相すみませぬ
いま私の中には
邪見僑慢心がいっぱいで
むさくるしゅうございますが
●光明遍照
人捨てたもうとも
ここに生かされており
日日愚痴をもうせど
ここに生かされており
ただ なむあみだぶつと讃嘆す
●凡夫の眠り
明りけして
眼をとじたら
この三畳の間が
このまま阿弥陀さまのふところ
●いのちの海
生きとしいけるもの
ときにはいさかいながらも
無辺の いのちの海に
生かされており
この私も
●光る
仏さまがごらんになれば
無能な者は
無能なままで
愚かな者は
愚かなままで
それぞれに光っている
●今生
ここには
日が照り月が照り
いつしか私が照らされ
くるしみ多き今生を
なんとなくおがんでいる
●光のまんなか
この光のまんなかで
いろいろなできごとが
私をとりまいて
去来しており
●わたし船
むかし淀川で
わたし船に乗りましたが
いつしか仏の国への
わたし船に乗っていた
●煩悩大道
ふと暗くなり
また日がさす
この道を
ただ いそがずやすまず
りきまずに
念仏のうた「常照我(榎本栄一著)」より
●じねんほうにへ
ようやく見つけた入口
なむあみだぶつのお光で
ここから はいってゆけば
よろしいのや
むりをせぬ入口
●弥陀のまばたき
娑婆何十年の波かぜも
弥陀のまばたき ほんの一瞬
この波かぜで多くの
人 事 物にめぐりあい
気が付けばみな無量光の中
●だいじな地獄
地獄へおちるたびに
私のこころの眼が
またすこしひらくようで
ほんに地獄は
私の だいじなところ
●煩悩が仏を光らせる
私の煩悩が
ここで渦巻いていると
なむ超日月光は
いよいよ 光ってくださる
●ふかしぎこうぶつ
この私に
悪念おこれば
すぐお照らしくださる
なむ不可思議光
●山いくつ
このいのちたまわり
ようやく自分の内面が
みえはじめたのは
六十の山をこえるころから
●雲ひかる
朽木のような私から
つぎつぎに
妄念の雲がわきおこり
無辺光はただ照らしたもう
●ただ照らされ
いつまでも尽きない
名聞勝他というぼんのう
いまは
このままを
ただ阿弥陀さまに照らされ
●いっしょに
目に見えぬ
この永劫(ようごう)のながれのなか
大宇宙はうごき
地球もうごき
私もいっしょにうごく
●手ぶらのねんぶつ
阿弥陀さまに遇うのに
手みやげはいらぬ
あるがまま
手ぶらのなむあみだぶつで
おのずから
御摂取光(おひかり)のなか
●弥陀といっしょ
行き詰ってうごけぬので
うごかずにいたら
阿弥陀さまもここで
私といっしょに
うずくまって御座った
●慈恩群萌
私たちは寝てもさめても
この空気を呼吸(いき)し
この慈恩(めぐみ)を
つねに忘れて暮している
●念々光照
私にさとりはございません
弥陀のおひかりに
自分のこのぼんのうが
照らされては
みえるだけ
●いのち無辺
いのち無辺の
お光のなか
私がしずかにイキしている
どこかで虫が一ぴき
誕生している
●煩悩即光照
私の中に煩悩の雲霧が
湧いているかぎり
仏は 私をはなれたまわず
●弥陀に招かれ
招かれた私の 煩悩は
いよいよ 濁り渦まいて
弥陀の摂取光(おりかり)は
いま 桜よりも耀(かがよ)う
●自分を書く
私がここで
一心に書いていると
みな摂取光中(おひかりのなか)の
煩悩熾盛の自画像になる

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